食卓に魚を並べたい、という時、こうされてみては如何でしょうか?
 ・持ち帰るのは自分と家族の食べる分だけ。(殺生を近所に自慢しなくて結構!)
 ・せいぜい二三日で食べきれる分だけ。(冷凍庫一杯の保存食なんて不要!)
 ・自分の包丁でさばける分だけ。(料理って結構な重労働!)
 
これを満たす収穫が揃ったら、その時点で釣りをやめれば良いのです。その潔さを持ち合わせていれば、負荷は下がり、自然の恵みと楽しみを長く享受してゆけるはずです。或いは魚を釣らせてもらった分、何か善いことをしましょう。水辺に散乱するビニ−ル袋、タバコの吸殻、あろうことか釣具のパッケ−ジ、それらは放置すれば永遠に積もり漂いつづける汚物。ゴミから目を背けず、手を伸ばし、持ち帰る。習慣にすれば簡単なことです。
昔、釣りは生存の手段でした。この原始的定義を拠りどころに、『魚とは殺して食すべき物』と主張される釣り師は多くいらっしゃいます。むしろ釣った魚を逃がす行為こそ、命を弄ぶ非道な行いだとお叱りを受けることもしばしばです。

しかし我々人間は増えすぎました。1900年に20億であった人口は2000年に60億、その後7年を経た今では65億を突破しています。一方その間も地球は残念ながら、微塵も大きくなっていないのです。ますます窮屈になるこの星で人間が永続を願うなら、他の命をどれだけ吸い取るかではなく、どう共に生きるか、そう考えることが必要な時を迎えているのではないでしょうか?

確かに、釣りとはそれ自体残酷な行為です。この点で言い訳の余地はありません。しかし釣りを媒介として垣間見る水中世界には価値ある学びがあり、それに触れることによってまた、魚に、自然に、そして我々を生かしてくれるこの世界に、貢献してゆける局面も開けてくるはずです。
僕自身肉や魚を食べますし、釣った魚を食す素晴らしさを否定はしません。しかし世界の海からニシンが、マグロが、タラが姿を消しつつある今日、その世界最大の消費者である我々日本人が無関心でいて良いはずはありません。

例えばご存知でしょうか?チヌが二年で20cmに育つのに対し、メバルは五年を要することを?命に貴賎はありません。が、生態系の中でそれぞれがもつ重さには理解されるべき違いがあるのです。種の制約を理解し、賢く収穫することは我々釣り人こそ実践できる手段です。
フライフィッシングはそもそも釣れない釣りです。自然観察をもとに毛鉤を作り、模倣して魚を欺くこの釣りは、手間暇をかけて一歩一歩自然ににじりよっていく、そのプロセスを楽しむ娯楽です。

敢えて難しい方法で挑み、なるだけ小さな鉤で釣り、丁寧に流れに帰す。そうすることによってその魚は、記憶の川に永遠の命を得て泳ぎ続けます。フライフィッシングの愉悦の世界に、ようこそ。


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冷たく澄んだ渓流は、過酷な世界でもあります。小さな昆虫を僅かな糧とし、厳しく長い冬を忍ぶ暮らし。成長の速度は極めて緩やかです。

スコットランドの友人からこんな話を聞かされました。高地の川で珍しい魚を捕まえた。鑑定の結果、その魚は北極イワナ、歯の検査による推定年齢は15歳。当時ちょうど15歳であった彼は、自分の掌に乗るほど小さな生命との奇妙な符号に運命的な感覚を覚え、それをきっかけに研究者の道を選んだそうです。
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